冬が来る前に仮設住宅を 地震が発生したのが、5月。それからすぐに雨期、それを過ぎると寒い冬がやって来ます。村までの道が土砂崩れにより封鎖され、建築資材も思うように運ぶことができません。だから、山岳地域は住宅の再建もなかなか進みませんでした。地震から五ヶ月程経つ頃、村人は相変わらず粗末なブルーシートのテント暮らしが続いていました。一刻も早く、暖かな家が必要です。 次なる支援は、仮設住宅の建設。仮設住宅を作るためにトタンを大量に調達しました。崩れた住宅の骨組みにトタンを打ち付け、小屋を50件以上作りました。最初は、34軒ほど作り、残りは次のタイミングで作りました。 仮設住宅を作るときには、ライオンズクラブ、薪流会のみなさん、浜松市有志の方々から支援をいただき...12Dec2019これまでの取り組み
日本政府 草の根援助支援活動について-1 この活動が始まったのは、2018年2月。地元の繋がりで、日本大使館を紹介されたのがきっかけでした。現在、日本のODA(政府開発援助)として、地元の日本大使館や総領事館が直接窓口になり、支援を行う取り組みがあります。外務省が行う草の根・人間の安全保障無償資金協力を通して、2018年12月までに3棟の小学校を建設することができました。活動は、2007年より地元支援活動を行う団体NGO HEED Nepal を中心として、NHASは、日本との橋渡しと地元での施工管理を担当しました。資材運搬の手配や地元の有力者との交渉、申請に必要な書類作成など、様々な面でサポートを行いました。 山岳地域への支援は、情報収集や地元住民へ連絡を取るのも一苦労...08Dec2019これまでの取り組み
枯れてしまった村の共同水道 地震から1ヶ月たった頃。村の共同水道が枯れてしまったといいます。地割れによってこれまでの水脈から水が漏れ出してしまったようでした。水道が壊れてしまっては、隣村まで水汲みに行かなければいけません。水がなくては生活がままなりません。そんな不便な生活を一刻も早く修繕しなければなりませんでした。 NHASは、地元民が主体となって活動しています。資材の購入から運搬、そして施工方法の決定、施工までを現地スタッフが中心となって運営をします。家の仕事が終わった後、村の広場に集まり皆で相談して決めます。地元の活性には地元民の活躍が欠かせません。NHASは、こうした活動を支援することで復興を目指しています。 こうした活動の積み重ねが、地元に活力を与え...28Nov2019これまでの取り組み
本格的な支援のはじまり まずは、命を繋ぐための支援が必要でした。しかし、物資はかさばりネパールまで運ぶだけで大変な費用がかかります。毛布や布団などの支援を申し出てくれた団体もありましたが、輸送費が高額になってしまいます。毛布などかさばるものを送るだけで6,000円ほどかかりますが、現地で購入すれば1,000円程。事情を説明して、現金で支援していただきました。 まずは、スポーツ飲料やサプリメント、レインコートなど、かさばらなくて日本で買った方が品質が良いものを購入しました。現地ではお米、防水のマットレス、薬も現地の言葉で表記のあるものを調達して、村へ運ぶことにしました。そして、地元の国会議員だった城内実氏の厚意によって、日本政府が届ける物資の中に100kg...21Nov2019これまでの取り組み
日本で最初の支援を呼びかけ 日本に帰国すると、新聞や知人のツテを頼って支援を呼びかけました。帰国する前にも、ネパール大地震の被害状況とビルさんの活動を伝える記事が新聞に掲載されており、ビルさんの安否を気遣う方々から連絡を受けました。各方面から次々と物資や支援金が集まってきました。地元のお寺や警察の団体、商工会など、日本でお世話になっている方々から、今回の大地震をきっかけに知り合った方々まで、各方面から支援を受けました。新聞での報道もあり、多くの方がネパール大地震に関心を寄せてくれました。 そして、日本へ戻ってから3週間ほどで、多くの支援が集まりました。14Nov2019
二週間後、帰国 2015年5月15日ネパールの内務省報道官によると、地震による死者8,460人・負傷者2万人以上になったことが発表されました。地震は収まって安堵しても、元の生活を取り戻すのが大変でした。怪我をして一命はとりとめたものの、障害が残ってしまったり、仕事を失ったりとこれまでの生活に戻れない人がたくさんいました。そして、命はあるものの家や家族など身寄りを無くしてしまった人も多く、自殺者の増加など二次被害の拡大も心配されていました。07Nov2019ことのはじまり
おばあちゃんの救出 チャリス村へ到着すると、地震当日に怪我を負ったおばあちゃんがまだ病院に行けずに苦しんでいました。早速、衛星電話でヘリを要請しましたが、チャリス村にはヘリコプターが着陸できず、歩いて2時間程のシェルトゥン村へおばあちゃんを連れて行きました。ビルさんが到着するまで一週間。ヘリコプターで病院へ行くまでに5日間程かかりようやく治療を受けることができました。命に別状は無かったとはいえ、頭に裂傷を負い、腰や足など全身を打撲していたので、ずっと痛んでいたはずです。病院で治療を受けられて、ホッとした表情だったといいます。元々、チャリス村は山岳地帯で、病気やけが人を病院に連れて行くことが困難な地域でした。例えば、家族が病気になってしまって病院へ行こ...31Oct2019ことのはじまり
故郷 チャリス村へ ようやく電話が繋がって村の様子がわかってきましたが、依然として厳しい状況が続いていました。地震から5日が経っても政府や諸外国からの支援は届いていませんでした。聞けば、建物のほとんどが壊れてしまい、多くの村人たちが家の中に入れずに野外に寝泊りをしている状態。雨風を凌げるブルーシートや毛布などもありません。家は倒壊し、食料庫の中には食べ物があると分かっていても、余震が続く中、危険で人が入れません。ネパールに地震が発生したのは、約80年ぶりのこと。村人全員が初めて経験する地震。村の長老でさえも予備知識を持ち合わせておらず、余震が続き、恐怖に怯え、ただ地震が治まるのを待つだけでした。24Oct2019
被害状況 ようやく電話が繋がって、山岳地帯の被害状況が分かってきました。 チャリス村周辺にあるゴルガー郡、ダーデン郡、ヌワコット郡、ラスワ郡、シンドゥパルチョク郡では、壊滅的な被害があったことが分かりました。チャリス村では、死者は出なかったものの、一人けが人がいるとのこと。 村には100軒ほどの家があり、5人家族が多いそうなので、人口はおよそ500人程。学校は建物が崩れてしまい、村の共同水道も壊れて水が出なくなっていました。そして、村人が住む家も倒壊したり、傾いてしまったりと、今まで通り使えない状況でした。 当日は、土曜日で学校がお休みだったこと。そして、幸運にも村の半数近くの人が村近くの渓谷にある温泉(タトパニ)で養生していて多くの人が難...03Oct2019ことのはじまり
繋がらない電話 地震直後、携帯の中継機が壊れてしまって、携帯電話が繋がらない状況が長く続きました。日本にいる家族ともなかなか連絡が取れませんでした。電話がないと情報収集もままならない状態。混乱の最中、地震当日に予約していた飛行機にも乗ることはできません。地震発生以降は、トリブバン国際空港も閉鎖状態。しばらくの間、飛行機の発着は中止され、機能を失いました。 日本にいる家族も心配で何度も電話を掛けましたが、携帯にはほとんど繋がらず安否確認ができませんでした。二日目には携帯は電池も切れてしまい固定電話が頼りの綱。しかし、現地にいる人たちは、余震を恐れて建物の中にいないので全く繋がらないのです。時間が経つにつれ、今度は食糧不足の深刻化による暴動が心配にな...25Sep2019ことのはじまり
余震と街の様子 地震が発生後、しばらく街はパニック状態だったといいます。10分、15分おきに次々と余震がありました。地震に慣れていないネパールの人たちは、どのように対処すれば良いのかわからないまま恐怖に駆られて、家の窓から飛び降りたり、慌てて外に飛び出して車やバイクに接触したりと事故が多発していたそうです。ネパールでは地震は滅多にないこと。地震に関する知識がない上、対策をほとんどしていないので、自分が地震に遭ったことすら認識できずにいる人も多かったようです。 被害者の中には、地震の直接的な被害より、その後の二次的要因によって怪我や命を落とした方も多かったそうです。病院には人が溢れ、入院している患者さんは建物の外に出て治療を受けました。病院自体も被...07Jun2019
2015年 ネパール大地震発生直後 2015年4月25日。午前11時56分。ビルさんは、その日夜のフライトで日本へ戻る予定でした。故郷であるチャリス村から移動し、弟のいるカトマンズ滞在中。ビルさんの経営する日本語学校の打合せ中に、被災しました。打ち合わせの相手は、たまたま日本人だったため、これは地震だとすぐにわかりました。これまで経験したことのない大きな揺れに、カトマンズの街中はパニック状態。建物は倒壊し、街中に人があふれていました。当然、空港へ行くこともできず、余震が続く中、夜を明かしました。 日本では、妻の真理子さんが心配し、携帯電話をかけましたが、25日の夜と26日にほんの少しの間だけ繋がったきり音信不通。当時、真理子さんのお腹には三人目の子を妊娠中。9歳にな...07Jun2019ことのはじまり